瀬名秀明「八月の博物館」

八月の博物館

八月の博物館

作家を志した少年時代の夢と冒険譚。少年の話が一番いきいきしてていいと思うんだけど、全体では三つのレベルの話が平行して進行するメタ構造をもったファンタジーになってる。メインのプロットは、小学生最後の夏休みの冒険で、その冒険の対象となる「こことは違う」世界の話が平行して語られる。さらに、その二つのストーリーを文章化している作者自身の話が絡む。作中の「作者」には実際の瀬名氏のプロフィールが投影され、また作中「作者」の少年時代が冒険譚の主人公である小学生に投影されるなど相互のレベルが有機的に関係し合っている。主人公の小学生にも、作中「作者」にも、自分が物語の登場人物であるという自覚があり、それぞれに作者を意識するけれども、それぞれが意識する作者は微妙にずれるし、もちろん実際の瀬名氏ともずれる(と思う)。こうやって説明するとわかりづらいけど、そのへんは別段読んでて苦にならない。

ストーリーの中心となる博物館は物語を展示するミュージアムであり、「物語」そのものでもある。「ミュージアムにはね、物語が必要なの。」と博物館の少女ミウは告白する。じゃあそもそも物語とは何なのか。物語とは、つまり意味を付けて解釈された世界のことだ。人間は、自分をとりまく世界に意味を付けて解釈したがる。世界を、意味のある一つながりの物語として解釈したいとずっと願ってきた。ミュージアムはその物語を伝えるためにある。世界を物語として再構成するロマンチックな装置だ。物語としての世界では、意味が同じならば、本物と複製の区別はない。だから人工現実は現実と「同調」することができる。未来のCG技術による極限にまでリアルに再現された人工現実もまた、一つの物語である。リアリティというものを解釈して、世界を再構成しているのだ。同じように、古代エジプトの信仰もまた、古代エジプト人のための物語である。そこにはまた別のリアリティがあり、解釈された世界がある。

物語の力を求め、物語について語る作中の「作者」は、物語に振り回される。コンピュータの人工現実と古代エジプトの宗教世界という二つの物語がせめぎ合う新たな物語は作中「作者」の意図を踏み越えて暴走する。時を越えて復活を果たし、コンピュータの作り出す人工現実を操って暴れ回るアピスこそが、物語の力と言うべきなのだ。物語の力を求めて作中の「作者」が右往左往するほどにアピスは力を得る。かくして物語の回収に失敗した「作者」は、破綻を回避するために自分自身の物語を用意する。ガールフレンドと共にある現在が、新人賞の応募原稿の形で過去の不意打ちを受けるという作家自身の物語だ。その中に、もう一つのあり得たかもしれない少年時代の物語として回収することにしたのだ。こうしてこの小説は三層構造となった。知らないうちに終わってしまった少年時代の思い出は、後から振り返ることで懐かしい物語となる。だからあっけなく終わってしまったクライマックスの後には延々とエピローグが続くことになる。こうして「物語」についての物語は、物語に振り回される作者の物語に収束し、少年時代の思い出として完結させられる。

いろいろ根拠のあるエピソードが詰込まれてるけど、いちいち解説までされているものは少ない。映画「ナイル殺人事件」の原作は「ナイルに死す」だからクリスティ作の「ナイル殺人事件」を捜しても見つかんないよ、とか。渋沢篤大夫って渋沢栄一じゃないのとか。そもそも渋沢栄一と言われても知らない人が多いのか?ちなみにナイル殺人事件のロードショー公開は1978年12月、ルパン三世の劇場版アニメ第一作であるルパンvs複製人間も同年同月に公開されてます。新春ロードショーだし、その二本立てじゃなかったし、79年夏くらいの話なのかなあ。呪いのホープ・ダイヤ、謎のマリー・セレステ号といったトピックや、エラリー・クイーンの国名シリーズといった主人公の少年的教養からすれば、エジプト、ミイラときてツタンカーメンの呪いが出てこないはずはないけれど、でてこないんだよね。そこに作為を感じたらいけないかしら。

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