田島優「あて字の日本語史」

「あて字」の日本語史

「あて字」の日本語史

「あて字」、と言っても色々ある。私は亜米利加とか仏蘭西、みたいな外国語に漢字を当てたものが真っ先に思い浮かんだが、最近の読めないDQNネームも「あて字」なら、暴走族の「夜露死苦」とかもそうだろう。商品名やマスコミのダジャレみたいなのも、そこら中にいっぱいある。ラノベのタイトルで、禁書目録をインデックスと読ませる類いもそうなら、「宇宙」を「そら」とか「都市」を「まち」とか読ませるのは佃煮にするほど溢れかえってる。さらに考えれば「海老」を「エビ」と読むのも「田舎」を「いなか」と読むのも、それぞれの漢字一字一字の読み方からは出てこない。
そもそも日本は無文字社会だったわけで、中国から漢字が入ってきて以来、漢字を使って日本語をどう表記するかという問題にずっと取り組んできたとも言える。漢文で書く、ということはつまり(当時の)中国語に翻訳するということで、その中に日本語をチャンポンに混ぜ込んで行くわけだ。そのために使われた漢字の音だけを借りて日本語を書き表す上代仮名(万葉仮名)とか、日本語の文章は「あて字」から始まったとも言える。
本書ではまずあて字の用例からあて字の概念、定義からあて字として扱う範囲を示す。その後日本語表記の歴史を古代から現代まで総覧している。
普段意識せずに使っている表記に、実は「あて字」が多いことに驚く。例えばこの「普段」の語も、元は「不断」と書いた。「不断」とは絶え間ない、という意味で、そこから「いつも」という意味が派生した。江戸時代末期から、「いつも」という意味で「フダン」と書く時の表記として、「平日」「平常」などの漢字表記に「フダン」のフリガナを振っていた。「普段」という表記になったのは明治20年以降のことだそうである。他にも、「不憫」はかわいそうなことという意味だが、そもそも「憫」の字が「かわいそう」という意味で、余計な「不」の字がついてるのはあて字だから、とか「堪能」も実はあて字で、「堪」には「カン」という音しかなくて「堪能」も「カンノウ」であったとか、日本語の移り変わりと表記の揺れ具合とが、大変面白い。