フランシス・フクシマ「IDENTITY」

アイデンティティ政治の齎した自由民主主義の危機について。現在のアイデンティティ政治に至るまでの叙述の大半は人間理解の哲学史。ルソーからフロイトに繋がり、そっからシモーヌ・ド・ボーヴォワールにつなげていく展開が面白い。
ルソーが人間の内面に善なる本質を発見し、フロイトが理性に抑圧された隠された自己ー無意識を発見し、内なる自己の開放が幸福をもたらすという発想が生まれた。主観的な内なる感情をボーヴォワールは「生きられた経験」として重視する。主観的な感情が「自尊心」として注目され、それが狭小なアイデンティティの並列に行き着いた。
アイデンティティとしてのナショナリズムについても大きくページを割く。排他的に働いて対立を生んだ反面、ナショナリズムの不在は分裂と内戦に向かうことになる。
国民国家を統合させるナショナルアイデンティティが重要という結論。人種・宗教ではない、多様性に開かれた理念に基づくナショナルアイデンティティによる統合。つまり移民の同化政策が重要であり、自己完結したコミュニティが並立することは民主主義を脅かす。民主主義の体制は政府と国民の契約に基づいて成立し、双方が義務を負う。国民の範囲を確定し、国民が参政権を行使するのでなければ、そうした契約は意味をなさない。
これは契約説的な発想?国家と社会が競い合うという「自由の命運」の議論でも、分断された社会は弱体であるからやっぱり統合は必要ということになる。オランダ的、レバノン的なコミュニティの連合体では立ちいかなくなるという話。
しかし、立憲主義、法の支配、人間の平等といった理念は「価値観を共有する」先進諸国が共有する理念であり、アメリカをイギリス、フランス、ドイツとあるいは日本と分けるサムシングがアイデンティティになるのではないのか。それは理念というよりは文化的、身体的、形而下のモノなのではないのか。ハンチントン的なモノは否定できない。