GUNSLINGER GIRL

http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200401.html
訪問者がいっぱい。こちら(http://d.hatena.ne.jp/kaien/20040114と二つ並べてリンクされている意味はよくわかりませんけれども。海燕氏の議論には、同意できる部分よりも同意しづらい部分の方が多いのですけれども。
ガンスリ論関連のリンクが整理されていたのでいろいろ辿ってみたけれど、一番同意できたのはここ。
http://www1.odn.ne.jp/~aae04190/column/moe1.htm
わたしが前に書いた考えのとこはトピックにしてリンクするようにしてみました。
http://www.globetown.net/~maxi/shuukannshohyou7.htm
議論の中心は海燕氏のこの書評らしい。しかし、そもそもジョゼが主人公なのか?主人公なら、1巻最後の第5話と2巻10話までの間に、スペイン広場の話ではなくもっと葛藤を示すようなエピソードがあってもいいように思う。この物語に「非倫理的な組織の中で最善を模索する男たちの生き方」を読み取ろうとするよりは、「恋愛シミュレーションのエピソードに一喜一憂する(させられる)ギャルゲーユーザーへの皮肉」を見る方がまだ違和感は少ないだろう。私には、入れ込んだ担当官が義体少女をかばって公社と戦ったり、二人で逃げ出したりするとは到底思えない。逃げるなら一人で逃げ出すだろう。たとえば、ヘンリエッタの「愛情」が重荷になったジョゼが、とか。
これは義体少女たちのための物語だから、少女たちは流星雨の下でベートーベンの歓びの歌を歌うこともできるわけだけれども、担当官には多分そんな救いは用意されていない。これはまだ原作も途中までなのでわからないのだけれども。
義体少女にとって大切なことは、生きているということであり、生きている事を実感できるということである。彼女たちが失ったものはなによりも自我の連続性だ。条件付けをされ、記憶を失い、植え付けられた感情を制御しきれずに振り回される。自我が記憶によって綴られた物語であるなら、記憶が失われ書き換えられるたびに自我は不安定になっていくはずだ。しかし、彼女たちは世界の中にしっかりと組み込まれている。これは多分、世界との関係を喪失した自我が逆に世界全体を覆い尽くそうとするいわゆるセカイ系の物語の逆、裏側なんだと思う。自意識をはねとばしてしまった、後に残ったセカイの物語。
(追記)
ご配慮ありがとうございました。該当しなくなった記述部分を削除しました。