とらドラ! #19 聖夜祭

なぜかマリみてとクリスマスネタがかぶった。しかもどっちも釘宮だし。季節外れなのに。
キレイなもの、キレイな光や、キレイな歌は、人間の愛憎や悩みとは関係なく、ただそれだけで存在しているからキレイなんだ。話が救いようもなく落ち込んでいく中で、ただただキレイな光のページェントを背景にクリスマスソングが流れるEDは、美しく、切ない。引っくり返したスノードームでふわっと雪が舞い上がるように、一斉に白い光が舞い上がるEDの入り方とか、鳥肌ものでした。大河のがらんとしたマンションの部屋に灯るのがキャンドルのぬくもりを感じさせる光で、賑やかなパーティ会場で煌めくのがクリスタルの透明な輝きだったり、絵と演出と話とが一体となってものすごい密度。神回、かのう。
いよいよ待望のクリスマスパーティ、タイガーとばかちーがクリスマスソングをデュエットするサプライズもあって盛大に盛り上がるものの、櫛枝は来ない。エンジェル大河は櫛枝の家まで迎えにいって、無理矢理彼女を竜児の待つ学校へ送り出すと、自分は一人マンションに帰ってくる筈のないサンタを待つのだった。
私も大河は「サンタを信じてる子供」なのか、と思いかけてましたよ。いる筈がないから、待てるんですね。存在しないサンタなら、裏切られることもないから、信じられるんですね。
大河が最初に北村に告白されたとき、彼女は北村くんがサンタなのかもしれないと思ったんでしょう。サンタの前ではいい子にしてなきゃいけないから、ずっと北村の前では硬直するばかりでした。大河が北村と自然に会話するようになったのは学園祭の後夜祭のときからです。倒れたって自分は一人でまた立ち上がれるんだ、と自信をもったときに、サンタは実在の誰かではなく抽象的な遠い存在として見ることが出来るようになったんでしょう。
大河にとって愛情はいつも一方通行です。愛情に飢えた子供で、双方向の愛情というものがそもそもよくわからなくて、ピンとこないんです。だから見ず知らずの子供にプレゼントするのも、生徒会長相手に殴り込みをかけるのも、見返りを期待しない自己満足。大河にとっては、「誰かのために動ける自分」という自己肯定が絶対に必要だったんです。
でも、竜児が相手のときは違うんですよね。竜児の期待に応えようとするし竜児のために奔走する一方で、わがまま放題に甘えまくる。竜児もまた甘やかすし、必ず助けにかけつけるわけですが。無防備なまでに双方向です。大河にとって竜児は最初の頃から特別な存在でしたが、大河はずっと無自覚でした。竜児が着ぐるみサンタになってやってくる、という象徴的な展開を経て初めて、気がつくわけです。
自分にとって竜児の存在が持つ意味を自覚した大河が半狂乱になってマンションから飛び出してくるシーンは大河の感情と作画のテンションが見事にシンクロして、劇的な効果をあげていました。「とらドラ!」はこういう盛り上げが抜群にうまいわ。
幽霊を信じたいみのりんは、サンタを信じてる大河が好きだったんですね。夜の路上で竜児の名を呼んで泣き叫ぶ大河をみてしまった彼女は、もう幽霊は探さないと竜児に告げます。これが単に竜児とは付き合わない、という意味なのか誰とも付き合うつもりがない、という意味なのか気になるところです。
で、亜美にその絶望的な鈍さを非難される竜児ですが、前回みのりんを励ましたときといい今回大河にサンタをプレゼントしたときといい、女の子のツボを外さないんですよね。絶妙のタイミングでスタンドプレーに出て、女の子の一番ほしいものをあげられるってのは萌えアニメの主人公というより少女マンガのヒーローなんだと思う。萌えキャラ使って少女マンガをやってみました、というのが「とらドラ!」なんじゃないだろうか。少女マンガだとハーレムものを女性視点から描いてヒロインの心理描写に説得力を与えられる。少女マンガだと男がどうしても女性の理想像になって男性層への説得力を失うけれど、萌えキャラを使ってハーレムものの定型に流し込むことで訴求力をもたせる。そこが「とらドラ!」の秘密なんじゃないだろうか。