ドリーム Hidden Figures

NASAの宇宙計画を支えた女性たちの知られざる活躍の物語。自分の価値は自分で示せ、と言ういかにもアメリカらしい映画だった。自分たちの権利のために戦う、といった運動に対しては批判的で、自分の価値を示して取引するような、もっと個人的な物語。黒人の太ったおばさんが、育成したプログラマー軍団を引き連れて向かってくるとことか、予告の映像にもなってたけど、カッコいいよ。
社会制度の中に差別が組み込まれている状況では、ヘイトとかは表面に出てこないんですね。公民権運動以前の話なので、バリバリの黒人差別が存在する社会で、今となっては信じられないような気もするけれど、ほんの少し前の現実でもある。映画の中でバスがどうこう言ってるのは、バスの中が白人用の席とそれ以外に分けられてた、と言うのが前提になってる。確か白人用の席に座って、「私は動かない」と言った黒人女性が公民権運動のはしりになったんじゃなかったか。「ニグロ」というのも今では完全な差別用語だけれど、当時はむしろ中立的な用語だった。そういう「差別用語」がポンポン出てくるのは、今の観客としては落ち着かないかも、とは思ったけど、こちらが聞き分けられてないだけで結構PC的な言い換えはなされてるのかもしれない。日本だと作品意図とか関わりなく機械的に言い換えてくような気がするけれど、アメリカはどうなんだろう。PC的配慮の行き過ぎってのはアメリカでも議論のタネになってたけれど。
職場のビルの中に非白人用のトイレがなくて、キャサリンがその度に800メートル離れたビルまで駆けてかなきゃならなかった、と言うのはフィクションらしいけど、端的にわかりやすいよね。仕事にも支障が出るんだけど、周りの白人たちは言われるまで気がつかない、と言うのも差別が制度化してるってことだ。最後はキャサリンが白人上司に同じ道を必死で走らせることになるわけだけれども。
宇宙飛行士がロケットに乗り込む直前、時間に追われながら必死で着水座標の計算してる主人公のキャサリンのシーンとかは、「サマーウォーズ」を思い出した。別にどっちが元ネタってことはないと思うけれど、計算サスペンスってのはあんまり他ではみたことない。身長の何倍もあるでっかい黒板に梯子をかけて数式を延々書いてくシーンとか、なかなかカッコいい。数学映画、なジャンルもあるのかな。
初めて宇宙に飛んだアメリカ人のグレンがやたらカッコいいのは、本当にかっこよかったのか美化してるのかはわからない。敵役になる人たちがみんな架空の人物なのは何か配慮があるんだろうか、考えすぎかな。
原題は「隠された人たち」、figureには人物、と数字とかデータの意味もあるので、人工衛星が衛星軌道から着水のために放物軌道に遷移する運動を示す数式を探して苦労するプロットと、意味をかけているんだろう。邦題の「ドリーム」は、まあなんと言うか陳腐で、最初は「私たちのアポロ計画」ってのがついてたんだけど、「いや、マーキュリー計画だから」といろんなとこから突っ込まれて無難に落ち着いたらしい。