打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

岩井俊二監督の同名TVドラマ(1993年)を原作とした新房昭之監督SHAFT制作の劇場版アニメ。酷評だったので行って見た。渋谷の19時15分の回で、結構入ってた。映像キレイだし、ちゃんと終わってるじゃん。そんな叩くような映画じゃないよ。
中学校の夏休みの登校日、親の都合で転校せざるを得なくなったなずなと、典道と祐介の、最後の1日の話、ただし妄想全開。散乱する勝手な妄想が偶さか交錯する、その一瞬が美しい。そういう映画。
原作は、「ifもしも」というドラマシリーズの1作品で、途中で話が分岐するのが前提だったけど、アニメとして単独の作品にする上で、世界を分岐させる不思議なガラス玉というガジェットを設定した。まあマクガフィンだ。原作のドラマもアニメも、まず現実の夏休み登校日の話から入る。ここはどちらも、ほぼ同じ。なずなが祐介を花火大会に誘い、祐介はすっぽかす。親の事情に怒ってるなずなは祐介を誘ったのも偶々で、花火見にいくと言いながら家出のつもりで大荷物を抱えてるんだけれど、典道も祐介も、そんななずなの事情は全然知らない。それでも、鬼の形相で追っかけてきた母親になずなが捕まって、泣き喚きながら連れ戻されていくのをみた典道は、ただ友達とはしゃいでるだけの祐介に怒り、誘われたのが自分だったらこんなことにはならなかった、と思う。ここで最初の巻き戻しが入り、花火大会に誘われる前の「分岐点」まで時間が戻る。
今度は典道が花火大会に誘われて、まあ色々あって二人は駅に行くんだけど、この辺りまではほぼ原作をなぞった展開。原作ではこの後、二人は夜の学校に忍び込んで、プールではしゃいだりするんだけど、アニメではさらに「もしも」を重ねて、話がどんどん分岐していく。
このガラス玉は、可能性というより妄想の塊で、典道の妄想というだけでなく、なずなの妄想や祐介の妄想や、いろんな人の妄想を集めた塊。というか、そもそもなずなが海岸で拾った段階で、全部なずなの妄想という可能性はある。いずれにしろそれぞれ自分勝手な妄想なんだけど、ただ、最後に玉が弾けて碎けたとき、典道となずなは二人ともキスする妄想が一致して、それで二人はキスをする。それが、美しい。
途中から入った「もしも」の世界は全部妄想で、最後に現実に戻るとそれらは全部なかったことになって、単にクラスの女の子が一人夏休みの間に転校してったという事実だけが残る。でも、ラストで、もしかしたら典道にとっては単なる妄想というだけではなかったのかもしれない、という仄めかしが入って、余韻を残してる。
背景美術頑張るとジブリっぽいとか言われちゃったりしがちだけど、「ジブリっぽくならないように」頑張ってた感じ。海の上を走ってる電車とか「千と千尋」だけど、シャフトのアニメにしていた。でも、シャフトで新房監督でも、意味不明なオブジェとか出てこないし、交通標識も普通だし、鉄パイプとかも灯台の周りに足場組んであるだけだったし、全然普通じゃん。せいぜい学校が丸いくらいだったよ。アップにした目がガラス玉みたいなのが印象的でした。

三人の関係は、多分典道はなずなを気にしてる。なずなは、典道が気にしてることを知ってる。祐介は、なずなが好きなのかどうかは、実のところよくわからない。祐介をけしかけたくてわざと煽ってるような感じもあるけど、どっちにしろ典道にはそんなことは分からないで、言葉通りに受け取ってる。登場人物の年齢を上げたのは、原作ドラマでもなずなと典道は到底同い年には見えなかったけど、それでも実写だから通せたんで、アニメだとせめて中学生にしないと無理だったんじゃないかと思った。なずなが転校する理由を、母親の離婚から母親の三度目の結婚に変更したのが原作からの大きな改変。原作ドラマだと分岐は一度きりで、「もしも」の世界は夢でももう一つの現実でもどうとでも解釈できるけれど、アニメの方はなずなのドラマを設定して、なずなの妄想が混じった後半の逃避行でどんどん現実から離れていく。典道に手を引かれて逃げ出す後半の逃避行で、屈折していたなずなが救いを見出すというドラマ。なずなはいい加減な母親に怒ってて、自分の父親を奪ったこと、嘘くさい「新しい父親」を連れてきたことに怒ってる。原作ドラマでは、なずなは「裏切られるのは血筋」と言っていたが、アニメでは「ビッチの血筋」と言っていて、むしろ裏切るのは自分の方だと思っている。それがどんどん妄想の玉の奥へ奥へと入り込んでいって、最後に玉が砕けたとき、なずなと典道の二人の妄想が重なって、気持ちが通いあう。