GUNSLINGER GIRL

あるはずのものがない/ないはずのものがある

義体と呼ばれる少女たちは自身の肉体の大部分を失い、記憶を失い、「条件付け」とよばれる薬物使用の洗脳で公社への忠誠心を植え付けられている。クラエスが「私が決めるの」と決然として言うとき、その「私」は何度も上書きされた記憶と条件付けによってプログラムされた意思によって成立している。無邪気な顔をした少女たちの自我は偽りの記憶と他人の意思からなる偽りの自分。しかし、少女たちが偽りの兄ーフラテッロに向ける愛情はプログラムの制御を超えて暴走する。クラエスの精神を破壊し、エルザを殺す。「全て条件付けで決めてくれたら楽なのに」とつぶやくトリエラは、与えられたものではない正体不明の情動を、どう扱っていいかわからずに途方にくれている。これは人間的な一切が否定された世界で抱え込んでしまった、「愛情」とは名付けようもない、しかし強い指向性と支配力をもった感情をもてあましている男と少女の物語である。
ここで少女をロボットや動物や、人間以外にするとそんなに違和感のない、泣かせが売り物の感動ドラマになる。それを人間でやると、ぞっとするような背徳になる。割り切るジャン、逃げるマルコー、欺瞞を弄するジョゼ、不条理にとまどう担当官それぞれの対応は読者のそれを先取りしたものだ。耐えきれずに抵抗しようとして殺されるナバロは読者自身でもあるのだ。「福祉公社」というなにより担当官のための欺瞞が、だから作品全体を覆い、さらに「仕組まれた悲恋」という欺瞞が示される。この作品世界では正義も倫理もすべてが欺瞞としてしか存在を許されない。だがこの徹底的に非人間的な設定の上に成り立っているのは、「感情だけが実在する」というロマンチックな物語なのだ。感情はあるが葛藤はない。ヒューマニズムを排したセンチメンタリズムがGUNSLINGER GIRLという物語である。
偽りの記憶と条件付けから生まれた感情に意味があるのか?事物の記憶は喪われても、その時に生まれた感情の痕跡は残る。一度全てを失った少女たちは義体として甦ることで、再びあらゆるものを失っていく過程を体験させられる。義体少女の「仕組まれた悲恋」という側面が強調されるが、この物語は意味や根拠を奪われてしまった感情、想いそのもの自体についての物語である。恋人たちが別れ、記憶が忘却の淵に沈んだ後に、物語だけが残るのだ。

リコ

義体である少女にとって、時間は積み上がる記憶ではない。過去は幾度となく上書きされ、あるいは単に失われていく。過去から引き継ぐものもなく、未来に伝えるものもない。永遠の現在だけがある。義体は赤い血を流しても、痛みはすぐに消えてしまう。味覚も鈍くなり、戦闘目的のための機能だけが強化されていく。義体少女にとって大切なことは、生きているということであり、生きている事を実感できるということである。
リコにとって、感情は機能だ。もし機械に感情があったなら、その全ての部品が設計された意図に従って機能していることに喜びを感じるのではないか。痛みや、味覚や、そうした感覚を失ったリコにとって自分はまさに機械だ。痛みを感じ、あるいは心地よさを感じるといった身体的感覚を失ったリコにとって、機能だけが唯一の関心となる。道具として十全に機能していることが快楽なのだ。

クラエス

クラエスの記憶は何度も上書きされ、本来の意味を失っている。本の好きなおとなしいお嬢さん、戦意の高い兵士、本の好きな皮肉屋の女の子、人格は次々に変わる。それが他人の意思によるものであり、プログラムされたものであっても、クラエスは「私が決めるの」と断言する。彼女の喜びはラバロとの血の通った約束にあると言ってもいいし、条件付けで定められた主人の思い出と言ってもいい。どちらにしろクラエスにとっては意味をなさない。だから、彼女にとって意味をなさない過去の感情の痕跡に突然襲われるとき、「泣きたくても涙が出ない」気分になる。自分が存在するという確信だけが、クラエスの持つ唯一のものである。人は、自ら信じる過去に拠って立っている。

アンジェリカ

アンジェリカの記憶は、単に失われていく。周囲の大人たちにとって過去は記憶として降り積もり、たしかに時間は流れているけれども、彼女にとって過去は意味をもたない。比較対象とする過去がないならば、未来においてなにかが「変化」したとしても、そもそもわかりはしない。アンジェリカにとって、時間は凍りついたまま流れることがない。
ジョゼもマルコーも、義体の少女たちに人間としての想いを見いだしたいと望んでいる。義体の少女たちは勿論人間だ、人間のはずだ。しかしジョゼは不信にとらわれ、マルコーは裏切られる。プリシッラの努力もまた報われることはないだろう。「条件付け」による偽りの過去、植え付けられた意思に基づく自分は、鏡の中の影のように偽りの幻なのか。アンジェリカが手にした新しい可能性は、不幸の別名にすぎないのか。アンジェリカと担当官との絆は変わらない。アンジェリカにとって関係が強まったり、切れたりすることはない。時間はただ流れ去り、アンジェリカに影響を与えうるのが自分ではなく「条件付け」であることにマルコーは打ちのめされる。アンジェリカは、愛情を与え受け取るという相互的な関係から切り離された、絶対的な零点として存在する。

ヘンリエッタ

義体の少女にとって、気が付いたら世界の時間は凍りついてしまっていて、なぜそんなことになったのかはわからないし理解できない。けれども、そんな世界は自分とは関係もないし、自分にとっての楽しみや喜びはとりあえず確かなものとして存在している。無垢で一途なヘンリエッタにとっては、ジョゼに向かう愛情だけが現実だ。一途なのは彼女は他になにも持たないからだし、無垢なのはいくらでも書き換え可能だという意味だ。過去は架空の記憶で、過ぎ去った時間は単に失われるだけ。過去から未来へと流れる時間の連続性が失われていること、生身の身体が機械に置き換わることで時間の流れが意味を失ってしまっていること、それは過去と未来の物語から現在を意味付けするような人間性そのものを不可能にしてしまう。だからヘンリエッタは条件付けによる忠誠心を愛情にすり換えることで、自分を男の原罪そのものへと変えてしまう。

トリエラ

トリエラには、血を流す子宮があり、並んだくまのぬいぐるみで数えられる過去がある。彼女にとって確かなものはそれだけだ。3話で任務に背いてマリオを逃がすのは、多分素直に示せないヒルシャーに対する好意の補償だ。トリエラには、条件付けで与えられた自分と、「本来の」自分の見分けがつかない。義体少女の担当官に対する愛情は洗脳で植えつけられたニセモノである。だが、そのことに自覚的なトリエラにとっても、なにが自分の真の感情なのかはわからない。真のトリエラはどこにいるのか。ヒルシャーとの関係に悩む現在か、消えてしまった過去の中か。
戦闘の英才教育を受け、育ての親であるクリスティアーノのために暗殺を重ねるピノッキオはトリエラが初めて出会う対等な他者だった。他人のために無条件で自分の生命を投げ出し、対等に殺しあう、自分と同じ存在。勝ちたい、という想いはなんの迷いもなく自分のものだと確信できた。そのとき機械の身体も条件付けも全てが彼女の味方になった。ピノッキオと対峙するとき、トリエラは初めて自分自身を完全に自分のものと感じることができた。だがそれは同時にピノッキオを殺すことでもあった。
彼女たちが失ったものはなによりも自我の連続性だ。条件付けをされ、記憶を失い、植え付けられた感情を制御しきれずに振り回される。自我が記憶によって綴られた物語であるなら、記憶が失われ書き換えられるたびに自我は不安定になっていくはずだ。しかし、彼女たちは世界の中にしっかりと組み込まれている。これは多分、世界との関係を喪失した自我が逆に世界全体を覆い尽くそうとするいわゆるセカイ系の物語の、裏側なのだ。自意識をはねとばしてしまった、後に残ったセカイの物語。自我に対する信頼感が揺らぎ、覆された世界。正義や倫理は欺瞞であり、職業的な暗殺者たちが殺しあうばかりの世界。そんな世界で、住人たちは存在するはずのない感情に、あるいはありうべき感情の不在に戸惑っている。

トラックバック

id:zozo_mix:20051029
ガンスリ論が盛り上がっているようでしたので、以前アニメを見たときの感想を再構成してレビューにまとめてみました。評というよりはポエムみたいだと思われたなら、それが「萌え」ということなのかもしれません。
私は最初にアニメの3話を見て、そこでハマってしまいました。ちなみにその時の最初の感想は
herecy8.hatenablog.com

フランカたちのことは、今後の展開もあるのであまり書けませんでしたが、公社を相対化するというよりは、日常生活と非日常、テロや殺し合いとを相対化させているのかなあと思いました。