崖の上のポニョ

あちこち見てきたけどあんましピンとこなかったのでまたネタにしてみる。
主人公の男の子が、ある日突然やってきた人間じゃない女の子と仲良くなる。主人公のまわりの女の子は、歓迎したり反発したり。で、ヒロインの女の子は不思議な力をもってて、いろいろ騒ぎを巻き起こす。ポニョのあらすじもこう書くと典型的な落ちもの系ロマコメですね。違いは、ヒロインの女の子がカエルみたいな顔してるのと、主人公のまわりの「女の子」が介護施設のおばあさんたちだってこと。でもちゃんとツンデレ系の(元)美少女とのイベントとかもあるし、こうして見ると深夜にやってる萌えアニメとまるで一緒だ。
って、全然違うんですけどね。なにが違うって、誰にも「照れ」がない。宗介もポニョも子供で互いを「意識する」ということがないから、ロマンチックなラブコメディからは最も遠いところにいる。そもそもアンデルセンの「人魚姫」は堂々たるラブロマンスです。しかも、人魚姫は男性同性愛者の比喩だとも言われるような、けっこう屈折した恋愛ものです。それを下敷きにして、恋愛ものとは真逆のベクトルの映画にしてしまった。なんで?とは思うわけです。広告業界的には「少女とおじさん」というのが一番ロマンティック=エロティックな組合せで、ガキんちょとばあさんというのが一番身もフタもない組合せだそうですが、まさにこの映画の構図です。ラブロマンスの古典を使い、萌えアニメの文脈を換骨奪胎して、萌えとも恋愛ともあらん限りの距離をおいた映画を作った。なにが謎だって、それが一番の謎でしょう。
宮崎アニメは、ずっと自立して戦う女性を描いてきた。世界に自分の居場所をみつけ、確保する女性の物語を描いてきた。ナウシカもそうだったし、魔女宅のキキも、もののけ姫も、千尋も、ずっとそうだった。そして帽子屋で居心地悪そうにしてたのに老婆になったとたん世界に馴染んで切り盛りをはじめた「ハウル」のソフィーが、ひとつの完成形になった。
宮崎アニメの少年キャラというと、コナンとかパズーなんだけど、その系譜は途切れちゃうんですよね。コナンの無邪気と紅の豚の屈折との間がない。その間に入るのがハウルだったりすると、そりゃホントに「男」ってもんに絶望してるんだなあと思ってしまうわけです。「ポニョ」で、男を「男」たらしめる女性のエロスは全て削り取られて、母性に覆い尽くしてしまったのは、宗介を永遠の少年に封じ込めたいがために見えました。

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崖の上のポニョ - ねこまくら