フランシス・フクヤマ「リベラリズムへの不満」

本書でフクヤマはディアドラ・マクロフスキーが「人道的自由主義」と呼んでいる、古典的リベラリズムを擁護している。以下要旨。
現在リベラリズムは左右両翼からの攻撃を受けている。ここ数年のリベラリズムの発展に対する不満から、右派左派を問わずリベラリズムを根本から別の制度に置き換えようとする動きが出た。
右派はチェック・アンド・バランスのもとで行政権を制限する諸組織、司法制度や官僚制度、独立したメディアを攻撃し、支配下に置こうとしている。
進歩的左派は、リベラルな社会がすべての集団を平等に扱うという自らの理想に応えていないとする、それ自体としては正しい主張から出発し、リベラリズムの根本的な原理そのものを攻撃するような広がりを見せている。
どちらもリベラリズムに対する不満が原動力となっているが、それはリベラリズムの思想的本質とは関係がない。リベラリズムが、解釈によって極端化してしまったことによる不満であり、対処法はリベラリズムの穏健化である。
個人の自律性を、経済的自由を第一義に考えて極端なまでに追求したのがネオリベラリズム。国家を敵視するリバタリアニズムと結びついて先鋭化したことで公共サービスの劣化、国内産業の空洞化と中間層の没落、格差拡大を招来し、ポピュリズムによる反発を生み出した。
個人の自律性を哲学的領域、政治的領域で拡大、自律の概念を社会的結束を脅かす形で絶対化したのがアイデンティ政治。リベラルな理想が実現できないことへの不満は、ポストモダンの洗礼を経て孤立した個人を前提にするリベラリズムの普遍主義を批判、共有不能な「生きた経験」を重視することで「何も真実ではなく、すべてが可能」という認知の荒野にたどり着いた。平等の前提として想定された自律的な個人が否定されると、普遍的な価値の尺度として残るのは「権力への意思」のみとなり、アイデンティティ集団同士のゼロサム闘争に突入するしかなくなる。アイデンティティ政治は人種差別を意図や行動から切り離し、制度や言語に内在する差別構造を批判する。そのために権力と言語を混同し、言語に対して極度に敏感となる。あらゆる形態の私的行動に透明性を要求する信念、私的領域と公的領域の区分を無化する情報技術の力とあわさり、プライバシーが侵食され、言論の自由への重大な脅威となっている。
多様性を統治する制度的メカニズムとして始まったリベラルな社会は、そのメカニズムそのものを脅かすような新しい形態の多様性を生み出した。リベラルな社会は、自らが作り出した内部分裂を克服できるかどうか、未解決の問題として残っている。

リベラリズムは最終目標の問題を議論しない。もっとも重要な事柄についての合意は必要ない。各個人が他者や国家に干渉されずに何が重要かを決めることができるという点で合意すればよい。自律の権利を行使し、人生の進路を決定できる選択能力が人間に尊厳を与える。
保守派は人口構成の多様性を受け入れ、それを利用して、アイデンティティの固定的側面に縛られない保守的な価値観を支持する必要がある。人種や民族の構成が変化していること、男女の役割が大きく変化していることを受け入れる必要がある。進歩的左派にとっての多様性は主に人種、民族、性別、性的指向に関連する特定のタイプの社会的差異だけでなく、政治的な多様性や宗教的な多様性を含む現実の社会の多様性を受け入れる必要がある。文化的集団の権利よりも個人の権利を優先させ続ける必要があるが、一方個人の自律性は無制限ではない。自律性の尊重は様々な信念の競争を管理し、緩和するためのものであり、信念を根底から覆すべきものでない。リベラリズムは多様性を受け入れる寛容さを重視し、何が善であるかを決めない中立性を重視するが、リベラルな社会を維持するために必要な価値観に対して中立ではありえない。無制限の自由と制約の絶え間ない破壊ではなく、自制心をはたらかせることが重要である。


本書でリベラルな民主主義が機能するためには政府への高い信頼性が重要であり、その条件として国民国家の重要性が指摘されている。
希薄な国民意識は分裂を助長し、国民意識への軽視は極右勢力の伸長を許す政治的弱点となる。一方リベラリズムは普遍主義の上に成り立っているため、国民意識の涵養に消極的である。しかし、全ての社会は、内部の秩序を維持し、外敵から自らを守るために武力を行使する必要がある。リベラルな社会は強力な国家を作り、法の支配のもとにその力を抑制することによってこれを実現する。限定された領土に法執行権を持つ国家は、合法的な武力行使が可能な唯一の政治的アクターである。ルールを強制する能力は国民国家支配下にあり、最終的な権力は依然として国民国家のものである。国民国家の重要性は、正当な権力を持ち、暴力を制御する手段であり、共同体の唯一の源泉であることにある。国民国家は依然として本能的な忠誠心を感じる連帯の最大の単位であり、この忠誠心は国家の正統性、ひいては統治能力を支える重要な要素となっている。
ただし、国民意識が人種、民族、宗教的伝統などの固定的な特性に基づいている場合、排他的なナショナリズムへと転化するリスクを孕んでおり、リベラリズムの普遍主義との間には潜在的な強い緊張関係がある。ここでフクヤマはリベラルな国民意識について述べる一方、中東・バルカン半島・南アジア・東南アジアなど、何世代にもわたって同じ領土を占め、独自の文化的・言語的伝統を持つ民族集団や宗教集団が存在する地域では、民族的・宗教的アイデンティティがほとんどの人々にとって事実上不可欠な特性であり、彼らをより広い国民文化に同化させることは非現実的であることも認めている。国民意識の形成、国境の画定について、リベラリズムの理論には大きな空白があることを指摘している。


日本はまさに「何世代にもわたって同じ領土を占め、独自の文化的・言語的伝統を持つ民族集団」に該当すると思うので、日本が大量の移民を受け入れたうえでリベラルな民主主義社会としての統合を維持していくというためのモデルは提示されていない。
経済合理性を追求する個人、とかすべての属性から切り離された孤立した個人、といった単純化抽象化された人間モデルに基づいた理論を原理論的に徹底すると、捨象された要素から復讐される。合理的でない、エモーショナルでプリミティブな部分は普遍的合理的なモデルに組み込めないけれど無視はできない。中庸性とかバランスということで配慮するしかないということになるのかと思った。

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